月報「わっぱ」 2024年7月(No.512)
深田久彌 山の文学全集 (5)
著者 深田久彌 発行所 朝日新聞社
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K2(ケートゥー、8611m)の山名の語源はインド測量局がこの山に附した測量記号、K(カラコルム)2号である。エベレストから遅れること6年、この山の標高が求められ世界第2位の高峰であることが分かった。
チョゴリという現地名や初めてその山の領域に足を踏み入れた人の名にちなみマウント・ゴドウィン・オースティンと呼ばれた時期もあったが、世界第2位という事で次第にK2の呼称が定着してしまったのである。殆んど独立峰でバルトロ氷河から一気に3000mそそり立つ巨大な角錐は見事で、世界で一番美しい山と称えられている。
深田の書から外れるが、1977年の日本山岳協会K2登山隊に丹生理事長が一般公募で参加している。その隊は2度頂上に達したが、残念ながら理事長は頂上には立てなかった。けれど、8000mのC5まで登って、大いに活躍している。そして、その様子を「わっぱ453号(2019年8月)」の創立60年記念リレー随想で詳しく記している。また、「わっぱ503号(2023年10月)」ではK2に初登頂した1954年のイタリア隊に参加し、非常に苦い思いをしたワルテル・ボナッティの著書を紹介している。理事長のK2への思い入れはそのメールアドレスからも伺い知ることが出来る。
話を戻して、K2への最初の挑戦はエベレストより19年も前の1902年に行われた。イギリスやオーストリアの一流の登山家が参加したが、その当時としては無理もない話で、8000mを軽く考えアイゼンも持たないという隊だった。けれど7000m近くまでは登っている。
1909年にはイタリア王の従兄にあたるアプルッチ公率いるイタリア隊が挑戦している。非常に大規模な隊で、360人のポーターを雇い、後年の大名行列のようなヒマラヤ登山のキャラバン隊の先駆けとなる。
周囲を視察し南東稜(後にアプルッチ稜と名付けられる)が随一登頂可能という事を見出したが、7000mにも達せず退却している。
その後長くK2へ登山隊は行かず、1938年にようやくアメリカ隊が挑戦する。アプルッチ稜に取付き7925mまで達したが退却。翌1939年の第2次隊は頂上まで230mに迫るが、4名の犠牲者を出し敗退。第2次世界大戦後、1953年の第3次隊も悪天候と病人のため1名の犠牲者を出し引き上げる。
深田曰く「ヒマラヤ登山には一種の仁義のようなものがあって、ある国の登山隊が先鞭をつけると他の国の登山隊はその山に行かないという礼儀があった。その意味でK2初登頂の栄誉はアメリカに贈られるべきであった」
けれど、初登頂は1954年のイタリア隊だった。イタリアも1909年にアプルッチ公の登山隊が挑戦しているので資格はあったと言えるけれど、初登頂を攫われてアメリカは面白くなかったことだろう。
(続く)
続 私の書棚・山書紹介⑤
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