大垣山岳協会

山考雑記 高原の自然は朽ち山上の歴史は消える 2023.04.27

八曽山

【 個人山行 】 八曾黒平山 ( 327m Ⅱ△ ) SM

 自宅近くの内津峠から多治見市の高原地帯を経て、明治初期の農民暴動の秘史の舞台、犬山市の八曾黒平山を巡り歩いた。現代人の野放図な資源浪費症の跡、そして貴い教訓を期待できる歴史事実が消えつつある山頂寺院。足だけでなく、ちょっぴり頭も走らせる山行だった。

  • 日程:2023年4月27日(木)
  • 参加者:SM(単独)
  • 行程:自宅9:30⇒10:00内津峠県道508号路側で歩行開始→10:35中央高速上の歩道橋(北山橋)→11:05多治見市大沢公園→11:20採石工場敷地→車道→12:40北小木町集落1:00→1:20尾根取り付き→1:40県境尾根→1:45中電鉄塔(東海鉄道姫線)→巡視路→1:55やぶ支尾根降下→2:55八曾山北尾根筋→3:40八曾黒平山山頂(327m)→4:15モミノキキャンプ場→4:45尾張パークウェイ出合
  • 地理院地図 2.5万図:小泉・高蔵寺

 自宅から約5㎞離れた内津峠から暗い林野の中に進む歩道を歩き始める。居住する春日井市の北に接する多治見市側に広がる丘陵にある高社山(417m)に登り、さらに西側犬山市内に入り黒平山に至る計画だ。平坦な丘陵地帯が広がる低山だが、登山道対象外の地域。だから面白そうだ。

 ヒノキ林が突然消えて車の轟音が響く中央高速が下に見える。降りると道路を跨ぐ小さな歩道橋。この光景を見て過去に通った記憶が浮かぶ。だが、ここからどこに向かったか。脳内データは焼却済み。橋を渡りヒノキ林内を下りると一般道に出た。多治見市大沢町である。パラパラと民家があり、大沢公園のグラウンド奥から薮厚い林内斜面を下る。砕石工場の砕石貯蔵倉庫の裏側に出た(写真①、②)。道はない。広場に作業員が一人いるので、極力目に入らぬように注意して工事現場道路を経てから一般道路に出た。

写真① 砕石貯蔵倉庫裏側
写真② 砕石工場

 地理院地図を見ても分かるように、大沢町の高社山の南側斜面一帯は広大な採石場地帯である。赤茶けた山肌が広がり、各所に採掘業者の工場が見える。終始、ガラガラゴーゴーという作業音が聞こえる。その砕石現場の上に目指す高社山はそびえる。作業現場を通過しての登山はとても無理のようだ。北側の西山町から登るほかないと考え、この日の登山をあきらめて、ダンプカーの行き交う一般道路を西に向かう。路側には採石工場のほか、産業廃棄物処理工場があり大型貨物車が出入りしていた。さらに西に進むと広大な太陽光発電パネルが広がる(写真③)。東京の再エネ発電会社のもの。さらに、整地作業が進められている。発電パネルはもっと増えそうだ。

写真③ 広大な太陽光発電パネル

 パネル地帯の西側を北に進む小道を進む。車も人も誰もいない道。中間部で前から来た軽四の男性に聞くと、この道は目指す北小木町に出る道だと教えてくれた。この人が山行中に話をした唯一の人となった。北小木町の集落は約20戸。現住家屋は半分ほどか。複数の車が駐車している家が多かった。北に2㎞余行けば国道248号にでられる山里。山中深い静けさが快い。

 集落西端にある無住の慈光寺(写真④)裏の小川を渡り北に登る尾根に取り付く。薄い踏み跡が続き時折、赤布もある。山仕事用の道のようである。薄い薮を快適に進むと、やがて県境尾根に出た。その尾根を南下してすぐに北東側に小さな谷を3回突っ切り(写真⑤=最後に渡った谷)、八曾黒平山に続く主尾根に達した。ヒノキの人工林に低木の広葉樹が混じる交雑林。周りの眺望が全く効かないので、方位計を見つめながら腐葉土斜面を上り下り。

写真④ 慈光寺
写真⑤ 最後に渡った谷

 主尾根に出てから、薄い踏み跡を南西に進む。赤布が幾つかあり、やがてしっかりした登山道となる。眺望のない薄暗い道脇に古い案内板があった。すぐ上に八曽黒平山の山頂があるとの記載。地理院地図には「八曾山」とするが、本来の山名は黒平山なのだ。山頂には高さ1mほどの小さな祠(写真⑥)と「黒平山」の山名板があった。いずれも朽ち果てた姿だった。点名黒平山のⅡ等三角点が祠の裏にあったのだが、気づかなかった。この山の下流にあるキャンプ場には昔、孫たちと来た覚えはあるが、山には登っていない。今回この山に登る契機となったのは美濃加茂市山之上の富士山に登った際、そこで明治17年に起きた農民暴動蜂起事件を知ったことだ。美濃加茂市内の貧農ら250人が地租の減免や徴兵制廃止を求めて富士山山上に立てこもった美濃加茂事件だ。この組織は名古屋の自由民権運動の結社、愛国交親社傘下の団体であり、美濃加茂事件を起こす直前に八曾黒平山に赴き、名古屋の仲間と相談する予定だったらしい。赴いたが相談(謀議)は成立しなかったという記録があるという。八曾黒平山も自由民権運動の聖地だったのか。その現在の様子が知りたくて、登った。しかし、小さな祠だけが残った。

写真⑥ 黒平山山頂 小さな祠

 山頂部平坦部の円周部に石垣が組んであった。私はその上をぐるりと一周してみた。しかし、雑木やヒノキがびっしり塞いでいて内部に寺跡らしい旧跡は見えなかった。犬山市史によると石垣内の寺域は750坪(約2500㎡)、そこに庫裏25坪、仏堂、鎮守堂が建っていたという。寺は宗岳寺と言った。もともと同寺は犬山市塔野地にあったが、消失し廃寺となった。それを明治11年に黒平山山頂に再建したのは、元遠州・千光寺(曹洞宗)住職の奥平貫山だった。

 貫山の民権運動、農民暴動との関りははっきりしないが、宗岳寺域に民権運動組織が出入りして、貫山は組織になんらかの支援をしたことは間違いない。彼は民権団体へ活動資金を提供したのだが、にせ札だったとされ、警察に捕まり入獄、明治17年12月に獄死した。52歳だった。八曾黒平山の歴史は帰宅後に知った。

 山頂からの登山道の上部は暗くて険しいが途中で広い林道となる。尾張北部の農地を潤す五条川の源流部である。中流部で突然、川の中から嬌声怒声が届いた。若い男性4人が川の浅瀬に入りふざけながら遊んでいた。困ったものだ。後は誰にも会わず尾張パークウェイへの出口に達した。

 山行前半では茶色の地面が広がる採石場と太陽光発電パネル。さらに産業廃棄物処理工場などが印象的だった。草原の自然は乏しい。いずれも、私たちの消費生活での浪費の拡大により、年々増え広がる光景であろう。際限なき「便利さ」「豊かさ」の追及の行方を考えると怖い光景ではなかろうか。そうした施設や現場が人目につかない、つまり目隠しされた位置にあるのはまずいと思う。

 一方、八曾黒平山での維新暴動史跡。山頂の宗岳寺住職奥平貫山は明治政府の苛政に反撃する農民組織を支援して結局死を招く。近代日本史の大事な場面だった山頂寺院は今何も残っていない、説明板類もない。市史に記載はあるが、ごくわずかで推定の域に止まる。さらに、奥平貫山なきあと民権騒動期が終わった後、宗岳寺はどうなったのか、いつ今のように寺施設が根絶したのかを示す情報に接していない。歴史上の事実は現代人の歩くべき道とつながる知恵や教訓を与えてくれるように思う。完

<ルート図>

発信:5/2

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