大垣山岳協会

「奥美濃の山」登山小史(1)

TOPICS・随想・コラム

月報「わっぱ」 2022年6月(No.487)

「奥美濃の山」登山小史(1) - 戦前編(1) -  SK

 伊吹山地から越美山地の県境部に連なる「奥美濃の山」は、われわれ大垣山岳協会にとって一番親しいホームグラウンドの山々という位置づけになると思います。しかし、「奥美濃」という言葉は、実は「奥多摩」や「奥秩父」のように辞書に載っている一般的な用語ではありません。わずかに、『岐阜県地名大辞典 (角川書店)』に、郡上郡の説明として「古代~現在の郡名・かつては奥美濃と通称した所」という記述が見つかる程度で、その範囲はわれわれ岳人がイメージするエリアとは大きくかけ離れています。当たり前なようで案外知らない「奥美濃の山」は、どのように名付けられ、どのように登られてきたか、登山小史としてこれから数回にわたり紹介したいと思います。

 奥美濃の山が登山の対象として登られた最初の記録は、1924年(大正13年)10月、三高の西堀栄三郎(のちに第1次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長や日本山岳会会長を務める)が福井県の岩屋から夜叉ヶ池~池ノ又~ホハレ峠~門入~馬坂峠~根尾まで単独行したこととされます。次いで、今西錦司らの1927年(昭和2年) 4月29日~5月5日、能郷~能郷白山~温見~作六シ~狂小屋~塚~冠山~板垣峠~粟田郡の記録、その後、1926年からの近江美濃国境を中心にした三高の活動、1929年からの岐阜高等農林学校(現岐阜大学応用生物科学部)山岳部の活動などが続きます。当時はまだ「奥美濃の山」というエリア概念はなく、例えば「江美国境の山」といった括り方をしていたようです。

 「奥美濃の山」という言葉を初めて山岳界に紹介したのは森本次男(1899~1965年)です。彼も京都の岳人で、教諭として勤務しながら京都北山や奥美濃を中心に活動していました。

 彼は戦後の1947年(昭和22年)に京都山岳協会を結成し会長を務めます。同会は翌1948年に京都府山岳連盟と改称し、今西錦司が会長、彼は副会長となります。

 森本は1937年(昭和12年)頃から「奥美濃の山」に通い、その記録を月刊誌『関西山小屋(朋文堂)』に連載していきます。彼は、山や溪谷(たに)だけでなく、徳山などの山に住む人々にも目を向けています。

 彼は1939年掲載の「水上の山」で「樹林の山旅」という言葉を初めて使います。そして翌1940年(昭和15年)に伝説の名著『樹林の山旅』を刊行するのです。

 (敬称略、続く)


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