大垣山岳協会

ダム湖に映える徳山富士 2021.06.26

徳山富士

徳山富士 (点名・白谷) ( 925m Ⅲ等三角点 ) 丹生 統司

 本来なら26日(土)は飛騨市万波高原でテント泊、翌27日は白木峰登山の予定であったが台風5号の接近で列島は雨予報の為に中止した。13名の参加予定者の中にはテントを新調された方も数名いて中止の連絡は心苦しかった。せめて近場で雨音が聞こえる前に短期決戦の山をと徳山富士を計画した。写真は徳山湖五平能舞橋からの徳山富士である。

<ルート図>
  • 日程:2021年6月26日(土) 曇り
  • 参加者:L.丹生統、大谷早、堀洋、宮澤健
  • 行程:馬坂トンネル徳山側8:45-馬坂峠9:00-徳山富士山頂9:50
  • 地理院地図 2.5万図:能郷

 国道417号で徳山ダム湖を経て県道270号に入り馬坂トンネル徳山側右の空き地に駐車、3体の地蔵に安全登山を誓い無事の帰還をお願いして出発した。

 トンネル右手の谷筋から急斜面の尾根をロープに助けられて登る。梅雨時とあって地面は湿気を帯びて滑りやすく何度か足を取られ気が抜けない。

 早速、落ち葉の下から吸血ヒルが靴に攀じ登って来た。嫌な奴ほどすり寄って来る。

 尾根に登りきると根尾側からの冷風が衣服をすり抜けて緑のカーテンを揺らした。心地よい冷風に思わず立ち止まり大きく深呼吸をした。気になるのは目印が近距離でやたら多く放置されている。経験や実力で目印の過多、過少はやむを得ないが我が会では使用した目印は回収を指導しているが他人様の分までは・・・

 尾根に出ても急傾斜の登りが続く、頭上には山毛欅の新芽が濃くなって緑のシャワーを浴びている満足感に酔い悦に陥った。

 尾根にはヤマボウシが多く白花が樹冠を覆い綺麗だった。白地の花の中にピンクが混じったものも有って美しさを倍加していた。

 標高800mを過ぎるとガスが辺りを包み広葉樹の幹が影絵のような幻想美術を演出した。

 傾斜が落ちて来た、どうやら山頂台地に到達したようだ。南北に長く広い山頂台地、三角点を求めて樹林の中を更に南進した。

 山頂台地の西側斜面の樹木が伐採されて反射板が設置されていた。ガスが切れるとダム湖を挟んだ対岸に鏡山とミノマタの山頂が現れた。

 伐採地を更に南へ樹木の下を潜り進むと腐葉土上に艶やかなキノコを見つけた。野イチゴのようなみずみずしさだったがキノコ名が分からない。御存じの方はお教え願いたい。

 三角点に到着、点名・白谷(Ⅲ等三角点925,28m)文字は南向き、保護石は無かった。

 手造りの「徳山富士」山名板が山毛欅の木に括られていた。その下で記念写真を撮った。

 帰りに廃道となった嘗ての生活道である馬坂峠に寄った。自然石に「ういは馬坂、つらいは冠、のりのながいは田代谷」と書かれた旧徳山村の盆踊り唄が彫られており石碑の左には小文字で「往昔ここに想いし人々を偲ぶ」とあった。

 関ケ原の役で家康に従った徳山五兵衛は各務ヶ原更木4300石を拝領、それまでの徳山村と根尾村能郷の所領800石を合わせて5000石の旗本となり徳山家は明治維新まで続いた。徳山には代官所が置かれ各務ヶ原更木陣屋や根尾能郷とは馬坂峠越えで往来が行われた。

 福井県鯖江の誠照寺の使僧は「美濃廻り」と呼ばれる巡錫(美濃ではおまわり)の為に蠅帽子峠を越えて2ヶ月ほどの期間をかけて根尾村と徳山村各地区の道場で説法を行った。当然根尾村から徳山村へは馬坂峠が使われ、徳山八地域の巡錫を終えると冠ヶ峠を越えて越前田代谷を下った。峠の石碑は往時を偲んで、それを詠んだのであろうか、厳しい峠では村人が使僧を背負ったという。この美濃でいう「おまわり」は戦後の昭和40年代まで続けられていた。郵便物もこの峠を歩荷で越えたそうで冬季の配達は困難を極めたそうである。

 昭和8年、馬坂峠の直下にトンネルが開通すると樽見からバスが往来して徳山村は陸の孤島から解放された。しかし峠は村人の利便と引き換えにその使命を終えた。

 昭和46年日本最大のダム建設が決まると平成元年までに徳山村の全戸数が村を離れた。湖底に沈みゆく自然と徳山村の生活を描いた神山征次郎監督の映画「ふるさと」を根尾樽見駅近くの某所で鑑賞した記憶が有る。樽見鉄道乗車券と映画観賞券がセットの販売だった。ラストシーンで主演の樫山文江と長門裕之の夫婦役が村を後にトラックに家財道具を積載してカーブの多い山道を走り馬坂トンネル手前で停車した。車から降りて眼下の湖底に沈む「ふるさと」を俯瞰しての会話シーンには胸を打たれた。

 馬坂峠石彫の一文字、一彫りは「ふるさと」徳山を忘れない旧村民共通の誓いの碑なのだろう。完

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