大垣山岳協会

山考雑記 山あり里あり人あり 田代高原気まま歩き 2021.06.05

田代山(白川)

 地理院地図に「田代高原」の記載がある標高約500mの田代地区。北側にそびえる田代山(666m△Ⅲ)と2つの4等三角点に達した後、高原の田んぼや集落地を眺め歩いた。500年余の歴史を持つ高原村には学ぶものも豊かだった。

田代山( 666m Ⅲ△ ) 鈴木 正昭

  • 日程:2021年6月5日(土)
  • 参加者:単独
  • 行程:自宅6:15⇒尾張パークウェイ⇒国道41号⇒岐阜県白川町役場横⇒7:30田代林道脇駐車地(標高約270m駐車地)7:50→廃林道→砂防堰堤→廃林道→8:50点名笹山(△Ⅳ464m)→林道→田代集落内から廃林道→10:00主稜線出合→10:15田代山10:45→11:15素掘り林道出合→11:35白山神社→12:10点名田代高原(△Ⅳ524m)→12:25田代集落散策1:10→1:55駐車地
  • 地理院地図 2.5万図:河岐・金山

 白川町の役場の横から狭い田代林道を上がる。すぐに整備された広い舗装道路となる。道が大きく屈曲する地点の空き地に駐車。ここから田代沢右岸沿いに荒れた素掘りの林道が派生している。道には岩や倒木があふれ、完全な廃道状態。そこを上がり始めると、左下の田代沢は白い水しぶきに包まれごう音が鳴り響く。(写真①)前日の大雨の結果である。途中の大きな砂防堰堤で林道跡は崩壊し消えた。

写真①

 金網で覆われた急斜面を網の線をつかみながら登ると林道跡が復活。林道は次第によくなり廃道状態を脱し、橋を渡り右岸を折り返す林道を進む。林道からわずかに上がったササやぶの中に4等三角点笹山を見つけた。(写真②)

写真② 4等三角点 笹山

 高原には無数の林道が通っている。地理院地図記載のもの以外にも素掘り道があちこちに通る。舗装路は昔からの生活路だったようだ。田代集落に向う舗装路は各所でササや広葉樹の枝で塞がれ、通り抜けるのに苦労した。

 田代山は北側から高原を見下ろす位置にある。ネット情報を参考に集落道から木枝に覆われた廃林道に入る。まもなく「テレビ中継所 登山口」なる標柱が立っていた。頂上に中継施設があり、その巡視用の歩道がここから上がっていた。薄暗いヒノキ林の中、白い花が明るく咲いていた(写真③=ワチガイソウ?)。歩道は時に消えかける。腐葉土の急斜面を乗り切ると、頂上西側山稜に出た。そのすぐ上に頂上があった。看板もNHKの中継所施設もなかった。

写真③ ワチガイソウ?

 細長い山頂の北の端に三角点が立っていた。(写真④)南北からヒノキの人工林が迫っていて、北に見えるはずの御岳や北ア、白山連峰の姿は一切隠れている。5年ほど前まで見えていた記録があった。拡大造林でやたら植えられたヒノキが温暖化現象も加わりどんどん成長し山頂の眺望を塞いでしまう。近年、何度も経験する山頂でのつらい経験である。この山も眺望無しという登山価値の少ない山となったようで、最近の登山情報は少ない。

写真④ 田代山山頂

 NHKの中継所施設の痕跡はなにもなかった。後で聞いたが不要となったので数年前にヘリで解体し搬出したという。この点は喜ばしいことだ。不要廃物の山上放置によく出合うからだ。

 下山では東南尾根上の薄い踏み跡を降り、まもなく広い林道に出た。林道からは何本もの素掘りの支線道がうねうねとヒノキ林の中を巡っていた。田代山へは集落から高度200m足らず、距離も短いのであっという間の登山。時間の余裕があるので、集落南東にある4等三角点「田代高原」に登った。その後、集落の様子を眺め歩いた。

写真⑤

 のどかな田んぼ道を歩くと、田植えを終えた田の間に草原と化した田が何枚も見えた。そこに黄色の花菖蒲(キショウブ)がたくさん咲き競っていた。高齢化が進み、田の半分ほどは耕作放棄されているようだ。

 家前の畑で農作業をしていたYSさん(83)に声をかけた。同氏によると田代集落は数十年前まで15軒ほどの住家があった。次第に減り現在の居住者は5軒ほどだそうだ。ここで生まれ育ったが、やがて外部に出て職を得て家も作ったが、近年になり母親の介護のために古里に戻ったという。

 ただ、買い物などは下の町の中心部まで車で30分ほどかかる。それでも、静かで緑豊かな高原村の生活を楽しんでおられるように見えた。

 一つお聞きしたいことがあった。ここから高度約200m下の和泉地区にある曹洞宗の古刹、洞雲寺が昔、ここ田代で創建され、後に現在地に移設された歴史経緯であった。

 YSさんは田代時代の寺の位置はすぐ近くの竹やぶの奧だという。ただ、経緯については聞けなかったので、帰宅後に洞雲寺のご住職に電話でお聞きした。はるかなる室町幕府の7代将軍、足利義勝は若干9歳で即位したが、病のため在位1年弱で1443年に死去した。幕府は義勝平癒を願っていくつかの寺院を創建した。その一つがもともと小さな天台修験道の道場があった田代に建てた洞雲寺だと伝えられる。その後、500余年後の1958年に約300m下の現在地に移転した。この際、移設したのは山門や本堂の天井、須弥壇などである。檀家は現在、約350戸の大寺だ。(写真⑥=洞雲寺本堂)

写真⑥ 洞雲寺本堂

 不思議に思うのは多くの檀家を抱える寺が町中心市街地より300mも高い高原にあったことだ。春秋正月の法要の際、檀家周りの法事に寺僧や檀家信徒が歩いて長い坂道を行き来した。車のなかった時代である。雪の降る冬は大変だっただろう。生きるために信仰活動が不可欠だった時代である。雪道苦行も有り難く耐えたのであろう。無信仰時代といわれる今、スマホSNSつながりに夢中な現代人。

 それが現代の信仰活動でもあるようにも思える。困った時代だと思う。それよりも私は田代時代の洞雲寺信仰にあこがれと本来的なものを感じる。

<ルート図>

発信:6/7

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