大垣山岳協会

行市山、柳ヶ瀬山 2020.11.17

柳ヶ瀬山

月報「わっぱ」 2020年12月(No.469)

【 週日山行 】 行市山 ( 659.7m Ⅲ△ )、柳ヶ瀬山 ( 439.1m Ⅳ△ ) 堀 義博

  • 日程:2020年11月17日(火)
  • 参加者:L.堀 義、L代行.丹生統、安藤正、岩田嘉、大橋礼、小倉繁、桐山美、清水照、竹森せ、堀 洋、宮澤健
  • 行程:建駐車場6:30=行市山登山口8:10~(車回送)~8:45-別所山9:55-行市山10:55-倉坂12:45-玄蕃尾城跡13:05~14:00-柳ヶ瀬登山口14:55~15:10=大垣
  • 地理院地図 2.5万図:木之本(岐阜15-2)、中河内(同15-1)

 今月の週日山行は、滋賀県の長浜市木之本町から北へ伸びる北国街道(R365号)の西に連なる行市山から柳ヶ瀬山への稜線歩き。この一帯は天正11年(1583年)4月に羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳合戦の際、勝家側の諸将が陣を張ったところで、方々に砦跡が残されている。また、この稜線は滋賀県と福井県の県境で、雨水を太平洋と日本海に分ける日本の中央分水嶺となっている。今年の4月に計画したがコロナ禍で中止となったため、再度取り上げたものである。

 4月の際は下調べをしたりして準備万端だったが、当日はリーダーの私は絶不調。2日前に年甲斐もなくややハードな山行をしたために、ちょうど筋肉痛の真っ只中。とても行市山には登れないと判断した。昼食場所の玄蕃尾城跡で待つことにして、その間のリーダー代行を丹生理事長にお願いした。

 定時に岐建駐車場を出発。木ノ本駅でトイレ休憩をして行市山の登山口へ。登山口には毛受(めんじゅ)兄弟の墓がある。兄弟は勝家の小姓だったが、主人を逃がすために身代わりとなって討ち死にした。合戦後にあっぱれな戦いぶりに秀吉はいたく感動し亡骸を丁寧に葬ったとされる。地元の方々によって現在も綺麗に清掃され保存されていた。皆が準備をしている間に車を柳ヶ瀬集落の下山口に回送する。登山口まで戻り、獣害除けの柵を開けて出発、私はそれを見送る。

 この後はリーダー代行の話となるが、杉の植林帯の中整備された道を辿り最初のピークが中谷山、四等三角点(点名・新堂)がある。ここも砦跡で、頂上はきれいに均されている。

 その先、植林帯から広葉樹林帯となり、素晴らしい紅葉や黄葉が現れてきた。11月中旬とは思えぬ暖かさで、上着を脱ぎ汗を拭きつつ歩く。立派な鉄製階段があり林道を横切った先のピークが別所山の砦跡。ここに布陣した前田利家は秀吉の反撃が始まると早々に戦線から離脱したという。

 別所山から先、しばしの急登を頑張ると県境稜線に出て、少しで行市山山頂に到着。途中の紅葉や歴史探訪を楽しみ過ぎたのか、ここまで2時間以上を要してしまった。

 その先はアップダウンの少ない稜線歩き。左の福井県側は植林帯もあるが、右の滋賀県側は広葉樹林帯が続く。大きなブナの木があらわれ、そこに熊の爪痕がクッキリ。足下を見るとヒラタケやナメコなど秋の味覚が目に入る。ついつい道草を食ってしまう。

 一方、リーダーは皆を見送った後、下山口の柳ヶ瀬集落に移動。時間はタップリあるので、国道を1時間程歩く。筋肉痛には平地を歩くのが一番で、次第に調子が良くなってきた。車止めまで戻り準備をして、倉坂峠(刀根越)に向かう。登りも大丈夫だ。

 峠に着き連絡を取ると、本隊はまだ中間の620m地点辺り。しばし待ってみたが、意を決して迎えに行くことにした。20分程歩いたところで合流、もう12時をかなり過ぎている。

 空腹を我慢して、倉坂峠の最後の急斜面を慎重に下る。その先の玄蕃尾城跡までは良く整備された遊歩道が続く。柳ヶ瀬山の四等三角点を素通りして玄蕃尾城跡到着は1時を過ぎていた。城跡は高い土塁と深い堀が幾重にもめぐらされている。いかにも立派な砦だが、戦わずして逃げたのでは勝ち目はない。

深い空堀と土塁、玄蕃尾城址を歩く

 遅い昼食。一番高い天守台に陣取ったので殿様気分または奥方様気分。いや、敗軍之将かもしれない。

 ゆっくりした後は軽トラックが走れるような広い道を柳ヶ瀬の集落まで下り、今日の遺跡巡りと収穫の山旅は終わった。

<ルート図>

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