【 個人山行 】 釈迦嶺(1175m) 丹生統司
50年前の釈迦嶺は伐採で全山丸裸、山腹の林道は赤い肌を晒していた。その林道と作業道を利用すれば労せず釈迦嶺の頂上に立てた。それが釈迦嶺の魅力を削いで安っぽい山にしていた。しかし歳月は徐々に木々や藪を育み確実に奥美濃の山に戻りつつあった。
- 日程:2020年10月24日(土) 雨一時薄日
- 参加者:L.丹生統、大谷早、小栗敦、佐藤大、田中恵、藤野一、村田美、山本知、吉田千
- 行程:ウソ峠8:30-釈迦嶺10:45-ウソ峠12:50
“徳山村の昔話・ウソ峠”
釈迦嶺の駐車地であるウソ峠には昔話が残されている。ある日、徳山村本郷から塚を経て越前今庄へ向かう旅人が揖斐川東谷を遡った。東谷は才ノ谷と分岐する付近から赤谷と呼ばれ直角に折れて源流は越前との国境に消える。そこはイワナやアマゴの魚影濃く宝庫といわれ渡渉の度に草鞋の裏で魚を踏んだといわれる。才の谷出合を過ぎると赤谷は直ぐ左右に分岐し右へ行けば道谷で源流は金草岳に消える。
赤谷を上流に向かうと右に釈迦嶺を見、遠くに美越国境稜線とその山並みが見える。千回沢山に突き上げるイチン谷を過ぎ、不動山へ消えるタンド谷、笹ヶ峰へ続く中ツ又谷をやり過ごし谷を更に遡った。トロ場やゴルジュを越えて、やがて水の流れが藪間の斜面に消えて這い上がると峠に出た。峠の反対斜面には緩やかに谷が降りていた。これを駆け下れば越前瀬戸と逸る心は足取りを軽くした。渓流の流れに沿って一気に下る。イワナやアマゴを草鞋履きの足で蹴散らし現れるゴルジュやトロを過ぎると川幅が広くなった。川原の石も丸くなりいよいよ越前瀬戸が近いと思っていた。
ところが下って来た谷の出合に見覚えがある。谷が右に直角に折れて下降を始めた所に北へ支谷が延びている。これは往きに右に見送った才の谷ではないか、なんと峠を降りて越前へ駆け下ったと思っていたが、元の才の谷出合に舞い戻っていたのである。以来徳山村ではその峠をウソ峠と呼ぶようになったそうだ。
先日までの天気予報では本日は快晴の登山日和であった。それを信じて大垣を出たが徳山ダムが近くなると怪しくなった。塚の駐車場でダイスケ君を拾いウソ峠に駐車した。朝方迄の雨を藪はいっぱい纏っており雨具を着用してザックカバー装着でスタートした。
廃林道は先日笹ヶ峰に利用した赤谷源流域に比べればはるかに歩きやすく一級国道並みであった。前山を迂回して造られた林道から尾根に近い所に踏み跡がありそれを利用して尾根芯に出た。50年前の伐採跡に20㎝のブナが復活して紅葉を始めていた。
読図力アップを目指した今山行、休憩時間中も磁石と地形図片手に現在地の確認に余念がない。この時頭上に一瞬だが青空が覗いて雨具の上衣を脱ぐことにした。
ムキタケのような気もするが自信のないキノコには手を付けない。この頃から雨脚が強くなり脱いだばかりの雨具を慌てて着けた。
標高1000mを越えると尾根は緩やかになった。紅葉が始まっており雨の中でも映えていた。雨脚は更に強くなり雨具やザックに当たりバラバラ音がする。よく見ると雨に混じって霰が降っていた。冷たくて手がかじかんだ。
笹丈が高くなって見通しが悪くなり赤布の目印を樹木の高みに着けるのだが手がかじかんで旨く結べない。1000mソコソコの山でも10月も後半になるとミゾレに近い雨が降る。毛の手袋を非常用に持参すべきであった。帰りの赤布の回収は結ぶよりもっと大変だった。
冷たい雨に打たれて山頂は遠く感じた。三角点に到達すると葉の落ちた枝に山名板が括られて有った。山頂台地は嘗て伐採されて大きな木はなく高い笹に覆われていたが三角点標石周りは3mほど切り開かれていた。
山頂到達時も雨は容赦なく降っており撮影を終えると即下山に掛かった。ウソ峠を出てから小さなチョコを2個口に入れただけで飲み物も摂っていない。この寒さと不快な雨から逃れたい。花よりダンゴより暖房の効いた車が恋しかった。
冷たい雨の中をかじかむ指で目印を回収しながら下山した。それぞれ交代で帰りの安全を考え気遣いして付けた目印であったが掲げる高さが足りず用をなしていないものがあった。特に笹藪の濃い個所については笹より高い位置の木枝の目印が有効であった。それも落葉した枝が目立って良い。踏み換え点の目印は下山方向の5mほど下か2ツ近距離で使用しており判りやすく有効だった。目印はピンクの蛍光色が遠くからでも良く見えていた。
ウソ峠に着くと濡れた衣服を着替えダム湖へ車を走らせた。勿論暖房を26度に設定してだ。ダム湖の畔は青空が覗いており望郷広場で太陽をいっぱい浴びて遅い昼食を戴いた。
筆者は2013年8月に単独で殿小屋谷から釈迦嶺に登った。下山は今回と同じコースでウソ峠に降りる予定であった。山頂から峠に向かう踏み跡は思っていた以上に明瞭だった。残置目印もソコソコあり踏み跡が確認出来た。だが株立ちの樹木と笹藪が重なると状況は一変した。二度ほど踏み跡を見失ったがそれでも古い目印を見つけて安堵した。そして三度目に踏み跡を見失うと根負けしてしまった。濃密な笹藪は汗と埃で衣服をドロドロにし、その埃は喉にからんで咳込んだ。体力の消耗も激しかった。現在地も確認出来ず利口な登山をしているように思えなかった。そこで西に150mほど下降すれば廃林道があるのでこれを利用してウソ峠に出ることにした。この道は20数年前に中津又谷やタンド谷の往復によく利用していた。藪の中の右往左往に比べれば樹木を掴んだ猿真似の下降は楽だった。やがて谷に水が出てきたが林道らしき平坦地は出て来なかった。後で気付いたが谷を横切る廃林道は抜けていて当たり前で20数年前既に荒れ放題であった。
廃林道は気付かずに通過してしまったようだがこのまま赤谷まで下降する事に決めた。登攀要具を持っており不安はなかったが何処を下降しているのか、現在地が掴めないのは心細かった。川床の石が丸くなり歩きやすくなると本谷が近くなった予感がした。しかし滝の岩が磨かれた様になりクライムダウンが難しくなって捲くことが多くなった。ツルツルに磨かれた渕を持つ2段滝を過ぎて本谷に着いた。直ぐに磁石で本流の流れ方向を確認し赤谷上流域と判断した。下流の右岸に大きな谷が合流しており確認に下った。これが高倉峠に源をもつアッチナレマタと判断、下って来たのはオクシャカンツボだった。これで現在地が確認出来た。このまま赤谷の源流を遡ればウソ峠だ。明瞭な釣り師の踏み跡を辿り15分ほどでウソ峠に着いた。
7年前の失敗を敢えて付け加えた。また地形図がA4サイズのコピー1枚で赤谷源流部までカバーされていなかったのも失敗であった。反面教師にしてほしい。完
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