月報「わっぱ」 2020年8月(No.465)
追悼 佐竹良彦前理事長
去る7月4日、SY前理事長が逝ってしまった。酸素ボンベを離せなくなった時からこの日が来る覚悟はしていたが寂しい、残念だ。
思えば私が昭和45年に入会した時、貴方は既に岩登りの名手として会の中枢にいた。「俺は岩猿だ」と自負していた。また若い時から博識で議論が好きだった。
当時の会はKN氏を軸に若手連中が、社会や家庭のしがらみと無縁でクライミングと雪に没頭した時代であった。私も感化されてのめり込み、貴方とザイルを結ぶ機会が多くなった。
会では昭和46年からGWの春合宿は集中登山が計画され、以後5年ほど続いた。貴方とコンビを組み剱岳小窓尾根からチンネや八ツ峰、穂高集中では滝谷から屏風岩など剱や穂高を縦横に駆け回ったのが懐かしく思い出される。狭い雪洞での沈殿日に貴方の物知り自慢をよく聴かされたが、白状すると感心もしたが退屈もしたよ。
会の行事でザイルを結ぶ機会は多かったが、個人山行は職種の違いから休日が合わず多くはなかった。しかし昭和49年11月の錫杖岳前衛フェース白壁ルートは記憶に残る山行だった。この時我々はクラックに打ち込まれた初登時の樫のクサビ連打の壁を現場に来て初めて見た。樫のクサビなど持ち合わせていない。古いクサビの捨て縄を付け替えて打ち直す作業は大変で、ボロボロのクサビはハーケンと重ね打ちして体重を預けた。初めての経験に私は相当ビビっていた。ジェードルのオーバーハングと格闘している私に「死ぬ気で登れ」の非情な声。ボロボロのクサビと捨て縄を下のテラスの貴方へ腹いせに投げたのも懐かしい語り草になった。次のピッチでは貴方が15mほど墜落し、ビレイで止めた私は命の恩人になった。
11月の宵闇は早く、最終ピッチをヘッドランプの灯りで登り終えると互いの健闘を称えてザイルを解く間もなく抱き合った。夜空に烏帽子岩がシルエットで浮かんでいた。
会ではシャー・イ・アンジュマンに続く2度目のヒマラヤ遠征計画が、TY先生を中心に盛り上がった時期があった。当然貴方もメンバーだったが、申請していた山が登頂されてポシャッてしまった。今思えば、ルートや山を変えてでもやるべきだった。貴方はきっと活躍して、サミッターに成り得ただろう。それからの人生感にも影響を与えたに違いない、残念だ。
山では一度命の恩人になった私だが、貴方に大きな借りがある。30年の長きにわたり会の理事長を押し付けてしまった。私がサラリーマン人生を全う出来たのは、貴方が30年間理事長を引き受けてくれたからである。貴方の面倒見の良さに30年も甘えてしまった。
3年ほど前に体調異変を知らされた。悔しいが貴方の病にザイルとビレイは効かず、2度目の命の恩人には成り損ねた。借りが永遠に返せなくなって残念だよ。これまで有り難う、安らかに眠ってください。合掌
理事長 NT
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