【月例山行】 賤ヶ岳(421.1mⅢ等△)~山本山(324.4mⅡ等△)縦走 成瀬徳幸
本記事は、丹生さんの報告をもとに作りました。
- 日程:2018年12月2日(日)
- 参加者:L 林 旬 他33名
- 行程:大垣岐建駐車場7:00→賤ヶ岳ロープウェイ駐車場発8:50→賤ヶ岳9:31→磯野山(320m)11:21~12:00→山本山13:42~14:00→朝日山神社駐車場14:25
12月の月例山行は林リーダーの下で賤ヶ岳~山本山の縦走を行った。当日は12月とは思えない暖かい一日、遅めの紅葉に迎えられて古戦場の兵(つわもの)を偲びながら歩いた。
賤ヶ岳合戦は言わずもがな織田家中の権力闘争、秀吉はこの勝利で天下取りに名乗りを上げるチャンスを得た。また加藤清正や福島正則は華々しく戦国メジャーデビューを果たした。そんなことを考えていると、賤ヶ岳山頂にすぐに到着した。山頂からは眼下に余呉湖、正面に横山岳、北東にピラミダルな蕎麦粒山が見えた。
賤ヶ岳山頂で1回めの記念写真
賤ヶ岳の展望に別れを告げ、山本山へ向けて約7.6㎞縦走が始まった。33名の大所帯、参加者の年齢も高いことから、事前には賤ヶ岳山頂まででギブアップする人が出てくると予想していたが、全員が山本山までの縦走を志願した。大人数でゆっくりしたペースの縦走が始まった。
落ち葉を踏んでの里山歩き、湖北丸山の山名坂の近くに点名・西山360,4mⅣ等△が有った。
磯野山320mで昼食休憩、ここも嘗ての山城跡、京極氏や浅井氏に従っていたようで藪の中に堀切などが確認できる。300mほど南東尾根上に点名・赤尾Ⅳ等△299,6mがある。
この縦走は「古保利古墳群」と3㎞にわたり並走する。古墳の数132基、古墳時代前期から終末期に造成されたと推定(長浜市教育委員会)大きな前方後円墳も8期ある。
西の水道の標識がある。江戸時代後期に余呉川の洪水が度々西野地区を襲った。この窮状を救うため天保時代に余呉川の水を琵琶湖へ流すため約4年の歳月を要してこの下に隧道が造られた。
嘗て高度成長期まで日本のあちこちで峠を越えて人や物の交流が図られた。日本が豊かになり自動車の普及とともに集落が消え峠道は藪に帰していった。
馬場跡を過ぎて大堀切に架かる橋を渡れば山本山城本丸跡だ。この城は平安時代末期に築城され、清和源氏の一族が居城としたとされる。その後戦国時代には浅井氏の支城となり、山崎の合戦では明智光秀に加担した為に滅亡し、廃城となった。
本丸跡とされる広場には周囲に土塁が廻され、重要な建物があったことが伺える。三角点(点名・山本山Ⅱ等△324,39m)は本丸南側の土塁の上にあった。
脱落者もなく山本山で2度目の記念写真、林リーダーの絶妙なペース配分が功が奏した。参加33名中75歳以上の方が5名、最高齢は81歳である。賤ヶ岳で何人かは縦走を断念することを想定し車を待機させていた。全員が縦走にチャレンジと聞いた時は正直驚き不安だった。弱者を上手に引っ張り登らせるのもリーダーの力量の一つだ。
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