大垣山岳協会

奥秩父主脈縦走記 2018.09.21-24f

甲武信ヶ岳

【 個人山行 】 奥秩父主脈縦走記 清水 克宏

  • 日程:2018年9月21日(金)~24日(日)
  • 参加者:清水克(単独)
  • 行程:後述

 これまで山頂と山頂をつないで登る「縦走」という登山スタイルにこだわって登ってきた。「縦走」は、程よい高さの山岳が密集する日本のような地理条件がないと成り立たない。日本人は、縄文時代の狩猟・採集生活の頃から、ルートが分かりやすく、雪崩や山崩れに遭いにくい尾根歩きをしており、この知恵は木地師やマタギにも継承された。修験道が興隆してからは、峰と峰をつなぐ「回峰行」が重要な修行となった。明治時代に入り、近代化への一大国家プロジェクトとして行われた山岳測量においては、作業効率からおのずと三角点を設置する山頂と山頂を結ぶ形で作業道が作られることが多かった。これを利用できた「近代登山」黎明期の登山者たちが「縦走」という登山スタイルを確立し、登山の大衆化とともに山小屋なども整備され、広く行われるようになって現在に至る。

 そんな、日本の風土に根差した「縦走」にこだわり、全国の主要なルートを歩いてきた中で、今回、未踏破だった奥秩父山塊の主脈を縦走してきたので報告します。

 奥秩父主脈縦走路は、東は東京・埼玉・山梨県境の雲取山から埼玉・山梨・長野県境の甲武信ケ岳を経て、金峰山・瑞牆山まで、4県県境の多くのピークをつないでいる。全ルートを踏破しようとすると、約80㎞、休憩時間なしの標準コースタイム累計だけで30時間を超える。縦走は、標高が高い西の金峰山側から東の雲取山側へ向かって行われることが多いようで、たいてい3泊4日、または4泊5日を要している。この主脈縦走を、9月21日~24日の三連休を含む3泊4日、単独行で計画した。ただし、➀岐阜県から登山口までアプローチが長く、なおかつ登山口と下山口が離れてしまうことから公共交通機関を利用 ②今年の天候不順に柔軟に対応するためテント泊 ③縦走路のうち未踏の雲取山の三条の湯から大弛峠区間踏破を最優先 という制約があっため、体力面では不利だが、東の雲取山側からテント泊で西の金峰山側をめざすこととした。

<ルート図>

9月21日(金) 雨
 大垣駅6:54-7:29名古屋駅7:39-9:20東京駅9:35-10:27立川駅10:29-10:59青梅駅11:00-11:35奥多摩駅12:25-お祭バス停13:03…林道終点15:30…三条の湯16:05(泊)

 終日雨の予報のため、雲取山登頂後三条の湯テント泊という当初計画を修正、林道歩きで三条の湯に直行・小屋泊りとする。東京駅から中央線、青梅線を乗り継ぎ、終着の奥多摩駅に到着。西東京バスに乗り換え「お祭」バス停で下車。約10㎞2時間半の林道、30分の山道歩きで三条の湯に到着。利用した林道は、山梨県内ながら、東京都水道局の水源林として管理されているそうで、トチの大木など豊かな広葉樹林が印象的だった。

 たどり着いた日本百名山の登山基地三条の湯は、休日ともなれば賑わうのだろうが、平日雨天とあってか宿泊者は他にない。30畳敷きほどの宿泊棟にただ一人、ゆっくり硫黄の湯につかり、天然マイタケの夕飯を頂いて、明日からの長丁場に備える。

三条の湯

9月22日(土) 雨のち曇
 三条の湯4:45…北天ノタル7:30…飛龍山山頂への分岐8:30…飛龍山山頂2,068m)8:55…分岐9:20…将監(しょうげん)峠12:20~12:35…唐松尾山山頂(2,109m)14:20~14:30…黒槐の頭15:13…笠取山山頂への分岐16:25…笠取山山頂(1,953m)16:45…雁峠18:00(テント泊)

 奥秩父主脈縦走路のうち、西側の瑞牆山荘から金峰山を経て大弛峠までは歩いたことがあり、とても賑わっていたので、首都圏により近い東側も登山客が大勢利用しているものと思っていた。ところが、終日歩いて将監峠と笠取山でそれぞれ単独行の男性に会っただけ。主脈の東側は、標高が2千m内外の樹林帯の中で、見晴らしもきかないためか、関東百名山および山梨百名山になっている飛龍山や笠取山のピークは登られているものの、縦走路を利用する登山者は極端に少ないことを知らされた。

 日帰りや小屋泊に慣れきった体に、テント泊の装備がこたえピッチが上がらず、本当は雁坂峠まで行きたかったが、笠取山山頂で甲武信ヶ岳に沈む夕陽を拝み、直下の雁峠(雁坂峠の約3時間30分手前)泊りとする。持参の昭文社の地図には峠に避難小屋と水場が記されていたが、小屋は廃屋状態で利用禁止。テントがあるので支障はないが、水場が見当たらないのには弱った。後で見たら、地図は2005年版。最新情報を確認しておくことの重要性を身に染みて知らされた。水なしで菓子パンを呑み込み就寝。

笠取山山頂から甲武信ヶ岳に沈む夕陽

9月23日 霧のち晴
雁峠5:00…燕山(2,004m)…古札山(2,112m)7:10…水晶山(2,158m)7:45…雁坂小屋8:20~:50…雁坂峠9:20…雁坂嶺(2,289m)10:10…東破風山(2,180)11:10…破風山(2,318m)12:00…木賊山(2,469m)14:30…甲武信小屋14:50~15:00…甲武信ヶ岳(2,475m)15:30…水師(2,395m)16:00…テント16:50(泊)

 ポットに残っていたカップ半杯分の湯と菓子パンの朝食で出発、燕山、古礼山、水晶山と進む。深い霧で喉が渇きにくかったのが救いだった。樹林の様相は、雁峠まで続いた東京都の水源林とは変わり、特に山梨県側のシラビソなどの針葉樹林は貧相で、放置された倒木をハードル競争のように幾度も乗り越えていかねばならない。

 約3時間30分で雁坂峠小屋に到着。とうとうとあふれる小屋前の蛇口から3杯立て続けに飲んだ水のうまいこと・ありがたいこと。一息つき、針ノ木峠、三伏峠とならび日本三大峠とされる雁坂峠から、雁坂嶺、東破風山、破風山とアップダウンを繰り返す。

東破風山の登り(左側が埼玉県)

 次の木賊山を越えた鞍部に甲武信小屋があり、ここで水をしっかり確保し、山梨・埼玉・長野県境(かつては甲斐・武蔵・信濃三国境)の甲武信ヶ岳に立つ。

 さすが日本百名山、団体さんがにぎやかに登って来たので、早々に先へ進む。しばし登山道はオーバーユース気味だったが、甲武信ヶ岳最短の毛木平へのルート分岐を越えると、再びまったく静かな森となる。地図であらかじめ当たりを付けた小平地の路傍にテントを設営。森の闇にひたりながら、ウイスキーが飲めたのがうれしかった。

9月24日 晴
テント泊地4:50…富士見5:35…両門ノ頭(2,263m)6:15~6:25…東梓7:15…国師のタル8:05…国師ヶ岳10:26…大弛峠11:00~11:55…朝日岳12:40~13:00…13:45大弛峠14:50-(バス)-16:10塩山駅16:25-17:16八王子駅17:30-18:09新横浜駅18:19-名古屋駅19:41-大垣駅

 最終日。当初計画の金峯山経由瑞牆山荘への下山は断念、コースタイム約5時間の大弛峠から、徒歩で長野県側でバス停のある川端まで4時間かけて降りることにする。今までは東から西へ向かっていた縦走路は、富士見という小ピークから南南西に大きく方向を変える。このあたり、コメツガ、シラビソ、オオシラビソ、トウヒなどの針葉樹の巨木も目立つ素晴らしい樹林帯。ただし倒木もまた巨大で、大きな荷物で乗り越したり迂回するのは一仕事。しかもルートが何度か直角に曲がるので、ルートをしっかりトレースすることに集中する。両門ノ頭という岩峰で唯一展望が得られ、国師ヶ岳の左肩に富士山が姿を現す。

両門ノ頭から国師ヶ岳、富士山を望む

 ふたたび樹林帯に入り約4時間で一等三角点のある国師ヶ岳山頂に立つ。黄葉した金峰山方向の見晴らしが得られる。ただし、日本で最も標高の高い車道である大弛峠(2,365m)から登り約1時間の山だけに、誰でも登れるよう木の階段がずっと付けられ、縦走の緊張感は一気に消えていく。

 11時に大弛峠到着。小屋の管理人に長野県側川端バス停の時間を訪ねたら、山梨県側塩山駅への予約制のバスに空きがあるようだよ、と教えてくれ、運転手と交渉し、14時50分発のバスを確保する。時間があるので、ザックを峠に残し、身軽になって金峰山の手前の朝日岳まで往復する。朝日岳山頂からは西の金峰山の五丈岩が間近に見え、ピーク手前の岩場から東に、今回たどってきた縦走路が眺められる。

朝日岳から奥秩父主脈を展望

 
 目の届くのは甲武信ヶ岳あたりまでで、主脈に取り付いた飛龍山あたりは視界にも入らない。「よく歩いたなあ」このひと時の、達成感・開放感は縦走ならではのもので、また次の縦走へと心が駆り立てられてしまうのである。

<余談> 帰って山梨県の森林について調べてみると、なんと国有林が県の森林面積の1%しかないという。そのかわり、他地域にはない「県有林」が46%もあって、残り53%が民有林(東京都水道局の水源林も含まれる)を占める。これは、次のような事情によるという。 ―明治維新後、入会地として村落ごとに利用されていた山林が、官有地さらには皇室の御料林として利用を禁じられた。その結果、それまで利用していた住民は困窮し、かえって無秩序な盗伐が進んだ。さらに県令の殖産興業策による伐採もあって山林が荒廃した。明治40年代には山梨県下で大水害が頻発し、東京府の水源である多摩川も大きな被害を受けた。これに対し、皇室が「恩賜林」として山梨県に御料林を下賜した。また、東京府(都)も独自に水源林を取得・保護した。奥秩父主脈縦走路の樹林の様相は、このような歴史の影響を受けての姿なのだと、改めて知らされた。

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