月報「わっぱ」 2016年5月(No.414)
石垣の謎を追う
南木曽町教育委員会は歴史資料や調査資料に該当するものはないという。戦国時代、木曽は武田、織田、豊臣の諸大名の間で激しい争奪の嵐が吹き荒れ、砦や山城が出現した可能性はある。ただ、この位置と高所を選ぶ地政学的意味は認められない。徳川幕政期、木曽一帯は尾張藩領となり、木曽代官・山村氏による山林支配が続いた。砦造営はあるはずもない。
賤母山(767m)一帯の賤母国有林は木曽五木と暖帯性広葉樹の混交する天然林として知られる。その姿を見ようと、1月10日に入山した。その後、ネット記録を見ているうち、私が通過した尾根筋に「顕著な山城遺構があった」という一文を見つけた。たった1件だけ。放っておけなかった。この目で確かめようと、出かけた。
石積みは不揃いで粗末な感じだ。この平地と直ぐ下方にある平坦地をくまなく捜したが、他に何もなかった。素人目ではあるが、山城遺構とするのは無理だろう。帰宅してから関係方面に電話で聞いた。中津川市と南木曽町の岐阜・長野県境尾根を南下していた。標高約910m、尾根の背の左側(長野側)に畳20枚ほどの平地を見つけた。そこに目指していた石積みがあった。幅5m、高さ1.5mほど。期待よりも随分小振りだが、これに違いない(写真①)。2月5日のことだ。
一方、山域は尾張藩支配の留山であり、明治以降は宮内省御料林、戦後は賤母国有林。林業関係の施設ではなかったか、と町担当者は言う。盗伐防止の監視小屋や育林作業小屋の可能性はある。そこで、国有林を管理する中部森林管理局に調べてもらった。だが、有効な資料はないとの回答だった。
(鈴木 正昭)
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