大垣山岳協会

門入と丹生の物語 ③

TOPICS・随想・コラム

月報「わっぱ」 2012年11月(No.372)

≪ 余呉から門入へ ≫

 先に門入の朱砂(水銀)鉱床の開発は滋賀県余呉町の丹生郷の人々が主役を果たしたと述べた。しかし、その物的資料はない。あるのは、状況証拠に基づいた推論だけだ。

門入は古代からホハレ峠を通じて川上と強いつながりを持ち、その川上は県境尾根にある八草峠を越して近江伊香郡と密接な交流を重ねていた。つまり、門入-川上-近江伊香郡は生活圏や姻戚圏を共有していたのだ。時代は下がるが、明治5年の滋賀県伊香郡杉野村の通婚圏の調査資料によると坂内村人との婚姻は26件、徳山村人とは7件の記録がある。(坂内村史)坂内川上は古代に近江からの越境で出来た集落との説話が伝わる。それゆえ、おそらく門入は古代に近江伊香郡からの越境者によりできた坂内川上集落の中から、さらにホハレ峠を越えた人々による植民集落だったと思われる。

 伊香郡余呉町の山あいに丹生郷がある。その上丹生にある丹生神社の由緒書には「創建は天平宝字八年(764)春」とあり、社伝によれば「息長丹生真人がこの地を開いた」とある、息長丹生真人は近江坂田郡を領し、領内には古代の朱砂採鉱地である醒ヶ井丹生があった。丹生神社は神前に赤土を供えるが、これは朱砂による赤土を祭祀に用いたのが始めであろう。

 丹生郷の朱砂鉱脈はやがて枯渇する。新たな朱砂を求め移動するほかない。東の丹生峠を越えて杉野川上流域の杉野(木之本町)に横山神社がある。その社殿に永仁6年(1298)の丹生光安の寄進札が残されており、丹生氏の存在を伝えている。杉野の上流には土倉岳があり、麓には昭和40年まで銅・硫化鉄・金・銀・鉛を産出する土蔵鉱山があった。

 朱砂を求めて、古代の丹生氏は丹生郷から杉野、さらに八草峠、ホハレ峠を経て門入に移住した、と推測する。

(丹生 統司)


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