月報「わっぱ」 2012年10月(No.371)
≪ 丹生氏と朱砂 ≫
朱砂(水銀朱・硫化水銀)は古代から、赤色の顔料、防腐剤、薬品のほか仏像の金メッキ用材、金の精錬用材などの用途に不可欠な鉱物資源であった。奈良時代初期に編纂された『豊後風土記』丹生郷条に「昔時の人、この山の沙を取りて朱砂にあてき。因りて丹生の郷という」とある。このように、朱砂の産地と推測される「丹生」の地名が全国至る所に残ることは朱砂の重要性を物語る。
丹生郷で朱砂採掘精製を担ったのが丹生氏だった。『日本書紀』には景行天皇が豊後国大野郡で土蜘蛛を征伐する話があるが、蜘蛛は虫が知る朱と書く。朱の知識を持つ丹生氏を虫に例え服従させた。つまり丹生氏は大和政権の支配下にあったと推測される。
一方、丹生郷の多くで、弘法大師空海の伝説が残っていることは興味深い。朱砂を使ったアマルガム鍍金メッキ法が確立され金色の仏像の国産化が可能となった。奈良の大仏製造はその象徴だが、水銀鉱山が国家管理下に入ったことを示すだろう。
一方、空海は高野山の守り神として丹生氏の祖神丹生津姫(にうずひめ)を祭神とする丹生明神を建てた。布教活動に必要な基礎資材である朱砂を重視したのであろう。丹生氏は真言宗の保護の下で、朱砂採堀を進め仏教興隆に尽くした。真言仏教の拡大の流れに乗って、丹生氏は朱砂を求めて全国の山地に分け入った。
滋賀県余呉(よご)町に上丹生と下丹生の集落があり、どちらにも丹生神社がある。門入からは県境尾根をまたいで南西方向に直線距離約20㌔離れた地点である。私は、この丹生郷が丹生氏の門入への進出の原点であったと考えている。
(丹生 統司)
門入と丹生の物語 ② ≪ 丹生氏と朱砂 ≫
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